講義

 講義を聞くこととそれが出来るようになることは2つであって1つである。
 まさか講義をコンテンツとして消費するならいざ知らず、試験で単位を認定するのだから、一種の再生が出来なくてはいけない。再現は第一には記憶だが、講義をそのまま再現するのではなく、言ったことの命を取り戻させる再生具合が評価されるのである。その意味で当然記憶を伴うにしても、真に求められているのは理解の深さである。もちろん先生に比べてより良い再生ができることだってある。その意味での再生である。
 これはただ講義にのみ言えることではない。書物に対する接し方も、娯楽コンテンツでない場合は読解と再生は同じことの別表現である。専門分野の研究や教養について論文や試論としてのエッセイが書けないようなら理解はしていない。
 良質な講義の1コマ90分と良質な入門書の一章約40頁分は概ね同じと思っていい。講義は圧縮率が高いだけ難しい。だから良質な講義はまともな論文が書けないとできない。発表が論文より難しいのはそのためである。もとになる認識の浅薄さを露呈するような発表や漫談講義も、コンテンツとして面白いことがないわけではない。これは人柄で聞かせているわけだが、思い出に残っても何ら身になることはない。
 コンテンツ問題は掘り下げれば根が深い。たかがコンテンツとはいえないからである。コンテンツの衝撃が強烈であればそれは出来事と呼ばれ、コンテンツの物的存在は物である。出来事や物こそが世界を作り、学問は書物や制度を使っても所詮伝承である。出来事は歴史を形成する。物として世界の一部をつくるとは住処をつくる意味である。これにはシステムの形成も含む。住処において、住処から、住処について人々は伝承する。また、コンテンツとしての魅力が人脈を形成し、社会となる。しかしコンテンツは、必ずしも意識的ではないが伝承をその基礎とする。
 コンテンツは消費物であり、飯の一種である。伝承は飯の種である。意味のそれと知られない現れ方がコンテンツであり、意味についての議論が伝承である。